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2006年04月11日(火)更新

忠義の寺

お寺
ベローズ案内人で度々紹介しております弘妙寺ですが4月6日の高遠の桜「開花情報」の記事のなかで武田、織田の戦いを書いておりますが、その戦いで織田軍は三峰川の断崖の上の高遠城を正面からでは無理と裏側の山から攻めようと天正十年(1582年)織田信忠は五万人を率いて弘妙寺に現れ森欄丸の兄で信忠軍の武将、森長可が弘妙寺に炊き出しを命じたそうですが、日藤上人は、「我が主君を撃つ者、これ敵なり。何ぞ糧を与うるを得んや」と織田軍の要求を拒んだそうです。
森長可は怒って寺に火をつけて焼き払ったそうです、日藤上人は仏には罪はないと川向こうの畑に仏様を移し守ったそうです。時代が変わり内藤氏が高遠藩主になりこの寺の事を「忠義の寺」と呼ぶようになったそうですが最近は「高く遠くに飛ばす」と言うことからゴルフの寺と呼ばれプロゴルファーの方たちが祈願に訪れています。

2006年04月06日(木)更新

高遠の桜 開花情報

天正10年武田、織田との最後の戦いは武田勝頼の弟、仁科盛信と織田信長の長男、織田信忠との凄惨な戦いで城は血の海になったそうです、その為高遠城跡の桜の花の色が他所の桜と違い色が濃いと言われています。

高遠の桜開花情報

高遠城は重要な軍事拠点として、織田氏からの甲斐進攻の最終防衛基地の役割を担い、天正9年(1581年)には勝頼の実弟の仁科盛信が高遠城主となった。翌天正10年(1582年)2月、織田信長は本格的な甲斐進攻を企て、長男の織田信忠に6万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城に籠もる城兵の数は3千。織田信忠の降伏勧告を退けて、仁科盛信を先頭に奮戦するもむなしく、凄惨な戦いの末、最後には全員が玉砕して落城した。
ウィキペディアより
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